吾妻鏡
吾妻鏡とは簡単に申せば、鎌倉時代の史書にございまする。この中に糠の部という名称で浅虫温泉郷が書かれておりまする。この頃、何故青森のことが史書に出てきたかといいますと、兄である源頼朝と関係の悪化しておりました源義経をかくまいました平泉の藤原秀衡が、文治3年(1187)に死去したのを機に、頼朝は秀衡の子泰衡に迫りまして義経を殺害させたばかりか、義経をかくまったことを口実に、後白川院の制止に耳もかさずに、東北地方に独自の政権を築いてきた奥羽藤原氏の征伐を開始したのでございまする。東北地方への勢力拡大にとって最大の障害を排除しようと考えたのでございます。文治5年(1189)7月、東海道・北陸道・中路(通)の三手に別れた総勢28万余の大軍が、平泉に向けられました。全国の軍が参加しました大作戦にございます。泰衡は平泉に火をかけつつさらに蝦夷(北海道)を目指して逃走し、糖部(浅虫温泉郷)から部下の河田次郎の本拠肥(比)内郡(現、秋田県北秋田郡・大館市)贄柵(にえのさく)に立寄りましたところ、河田次郎の裏切りに合い、あっけない最期を遂げてしまいます。その首は9月6日、頼朝の下(もと)に届けられ、頼朝は前九年の役の阿倍貞任の例にならい、長さ八寸の鉄釘でそれを獄門にかけ、ここに奥州合戦は終わったのでございまする。 戦後の9月22日、頼朝は早くも奥羽経営に乗り出します。葛西清重を現地に残し、奥州藤原氏に代わった頼朝の代官として、陸奥国内御家人の統率と平泉郡内の治安維持を命じました。頼朝は清重に対し病母のことは心配せずに帰国の心をおさえて国中の警固に努めるよう申し渡しております。しかしなお、頼朝やその御家人の東北支配に従おうとしない北奥の武士は多く、この年(文治5年)が不作だったこともございまして、12月には八郎潟(秋田県)の東に本拠を置きます、泰衡の郎従大河次郎兼任が、7000余騎を率いて鎌倉に反旗をひるがえしたのでございまする。鎌倉では東海道大将軍として千葉介常胤、東山道大将軍として比企能員を任命し、奥州に所領をもつ御家人を動員したほか、つづけて足利義兼を追討使として派遣し、2月、栗原一追(宮城県)・平泉衣川で兼任軍を破りました。こうした中で、青森県の地も初めていくつかの郡に分割されまして、郡地頭の支配にはいることとなりました。津軽平賀郡・津軽田舎郡・津軽山辺郡・津軽鼻和郡・(津軽)西浜・外浜・糠部郡がそれにございます。これらは鎌倉時代を通じて最終的にすべて北条得宗領(執権北条氏の家督の所領)となったのでございます。 次の時期としては、時頼時代が考えられまする。糠部地方の得宗領に関する最古の文書は、時頼が三浦盛時に五戸郷を安堵した寛元4年(1246)のものにございまする。宝治元年(1247)、時頼の宝治合戦での勝利は、北条氏の所領を飛躍的に増大させました。ちなみに三浦盛時が、三浦本宗家滅亡後、三浦介を継ぐことになりまする。また、この頃から北条1門の守護分国が増大することも明らかにされております。津軽には時頼の妾唐糸御前の伝説がございまして、また、三戸郡名川町の法光寺は時頼開基と伝えられるなど、時頼の廻国伝説が流布しております。これらはこの時代の得宗領の増大が推測される根拠となっておりまする。こうして、先の文からもわかりますように、曽我氏や安藤氏・工藤氏・横溝氏その他の北条氏被官たちが青森県の各地に入部することとなります。もっとも彼らの多くは鎌倉付近に本拠がございまして、北条氏にも近侍しなければならないので現地で所務代官を採用することも多かったようにございます。あるいは年貢の支払いをはじめとして、所領の経営を請け負う商人がいたともいわれておりまする。こうした得宗領からの年貢は莫大なもので、北条氏の重要な経営基盤となったばかりでなく、その得宗領地頭代職の給付は、得宗被官による軍役奉仕を得るための手段ともなったのでございまする。
文治六年二月一二日、
發遣の軍士ならびに在国の御家人等、
兼任を征せんがために、この間奥州に群集す。
おのおの昨日平泉を馳せ過ぐ。
泉田に於いて凶徒の在所を尋ね問ふのところ、
兼任一万騎を率し、すでに平泉を出づるの由と云々。
よって、泉田をうち立つ。
行き向ふの輩、足利上総前司(義兼)・
小山五郎(宗政)・ 同七郎・葛西三郎(清重)・
関四郎(俊平)・小野寺太郎(道綱)・
中條義勝法橋・同子息藤次(家長)以下、雲霞のごとし。
こと昏黒に及べども一の迫(はざま)を越ゆるに能はず、
途中の民居に止宿す。
この間、兼任早く過ぎをはんぬ。
よって、今日千葉新介(胤正)等馳せ加わり襲い到り
栗原一の迫に相逢うて挑み戦ふ。
賊徒分散するの間、追奔するの所、兼任なほ五百余騎を率し、
平泉・衣河を前に当てて陣を張り、栗原に差し向ひ、
衣河を越えて合戦す。
凶賊北上河を渡りて逃亡しをわんぬ。
返し合はすの輩においては、ことごとくこれを討ち取り、
次第に跡を追ふ。
しかうして、外ヶ濱(青森市付近)と糠の部
(浅虫温泉)の間に於て、
多宇末井(たうまい)の梯(かけはし)あり、
件の山を以て城郭と為し、兼任引き籠もるの由風聞あり。
上総前司(足利義兼)等又其の所に駆せ付く、
兼任は一旦防戦せしといえども、終に敗北し、
其の身は逐電して跡をくらます。
郎従等、或は梟首或は帰降す。
津軽
川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、
奇妙に躊躇して逆流するかのように流れが鈍くなるものである。
私はその鈍い流れを眺めて放心した。
きざな譬(たと)え方をすれば、
私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。
青森に於ける四年間は、その故に、
私にとって 忘れがたい期間であったとも言えるであろう。
青森に就いての思い出はだいたいそんなものだが、
この青森市から三里ほど東の浅虫という海岸の温泉も、
私には忘れられない土地である。
〜太宰治「津軽」より〜 |