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18代目伊右衛門日記   交通アクセス   学校向けプラン   個人情報取扱  
 

棟方志功様について
■生い立ち

明治36年9月5日、青森市で代々鍛冶職を営んできた父棟方幸吉・母さだの三男として生まれました。同43年4月に長嶋尋常小学校に入学しまして、3年生の頃から凧絵に興味を持ち、級友に描いてあげておりました。6年生の頃、田んぼに不時着した飛行機を見にみんなと走っていたところ、小川の所で転び、そばに白い花(おもだかという水草)を見つけて、その美しさにひどく感激してしまいました。小学校を卒業する頃から兄と一緒に実家の手伝いをしていましたが、17才の時に裁判所の弁護士控所に給仕として雇われまして、仕事のない日や、早朝に合浦公園に出かけて写生をし、絵の勉強をしました。小野忠明先生から、ゴッホのヒマワリの複製をいただき、深い感銘をうけたのもその頃にございます。又、絵の仲間達と会を作り、展覧会を開きまして、後に東奥日報社の編集長になった竹内俊吉氏(元青森知事)から高い評価を受けたこともあって、絵かきになる決意を一層堅くしました。


■上京

大正13年、21才の時、志を立て上京しまして、靴直しや納豆売りなどをして苦労しながら絵の勉強を続けました。上京して5年目の昭和3年10月、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、見事入選することができました。


■板画の道

「雑園」の入選する前から、版画に心をひかれていましたが、川上澄夫氏の「初夏の風」という版画を見て感激し、同郷の下沢木鉢郎氏に連れられて平塚運一氏を訪れ、初めて版画の道に入りました。昭和4年に春陽会に版画4点が入選し、翌5年には、国画会に出品した版画4点が全部入選しました。この頃から「版画」一筋に行くことを決心しました。昭和11年4月に、国画会に「大和し美し」(版画巻)を出品して日本民芸館に買上げられ、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司氏らの知遇を受けるようになりました。


■世界の棟方

昭和27年4月、スイスのルガーノで開かれた第2回国際版画展で優秀賞を受賞し、同30年7月、サンパウロ・ビエンナーレに「釈迦十大弟子」などを出品し、版画部門の最高賞を受賞しました。又、翌31年6月、ベニス・ビエンナーレに「柳緑花紅頌」などを出品し、国際版画大賞を受賞し、世界の棟方としての地歩を築きました。同34年には外遊し、アメリカの諸都市の大学で講演をしたり、ヨーロッパにも行ってゴッホの墓を訪ねたりしました。

■画伯と郷土

画伯の郷土を愛する心は人一倍強く、凧絵やねぶたは勿論のこと、風物に対しても大変心をよせていました。また、少年達を励ますために「清く高く美事に希望の大世界を進み抜く」という言葉も書いてくださいました。青森市の合浦公園にはこの言葉を刻んだ記念の石碑が建てられています。青森市では、昭和44年2月17日、青森市名誉市民第1号の称号を贈りました。同45年11月には青森県人としてはじめて文化勲章を受章しました。昭和50年9月13日東京都において72年の生がいを閉じました。お墓は、青森市三内霊園にゴッホの墓と同じ形につくられ、と名づけられています。

■広い範囲での活躍

志功画伯は、版画のほかに、油絵、倭画、書、詩歌などに多くの傑作を残していますし、著書類も多く、「棟方志功板画大柵」「板極道」「わだばゴッホになる」など数十冊にのぼっています。(注)画伯は昭和18年頃の作品から「木版画」を「板画」という字で表現しました。


 
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浅虫温泉 椿館
麻蒸は涼しいとか。初め着いたときは、毛布だけでは夜中には冷たく、布団を掛ける程だったが、この頃は夏も暑くなって来ている。東京の友達の便りのように「釜の底」の燃えてる暑さではないが、青森なりには、やはり真夏の真盛りは、麻蒸にも来て、後丑だという昨日は、街のまん中にある川の道路側は、青い林檎や西瓜なぞを売る布張りの屋台が近所近辺からの在方の客を呼んで、むし暑さをかき立てていた。私は麻蒸の景色を今まで海の景色ばかりを主にして考えていたが、今度の泊り旅で、山の景色の方が立派なのに、どんなに喜んだか知れなかった。中にも船水家林檎畑の高殿から観た高舘山を主にした一連の山畝がよいのだ。一見浅く見えるこのあたりの低い山々が、さまざまな起伏を連れずれにして、山の淀みというか、単純でない山の迫りが、匂いが、こころ深くはいって来る。八幡社山は、善知鳥前の岬と連絡しているのだと思うていたが、先日ここに在住の洋画家小舘氏から聞くと、ずっと笊石(久栗坂村)近くの八十八ケ所観世音山まで続いているとのことだった。同じ人からこれも聞かされたことだが、その観世音山までの途中の景色は、奥行きのあるものだと、画家特有の眼底に色彩を漂わして語ってくれた。八幡社山の真向かいに対して、公園馬場山がある。この馬場山といわれる町の公園山には、松の木がよく育っている。大体このあたりとしてわ珍しい黒松だ。若木なために、明石・舞子と並び称するわけには行かないが、東北の松の名所、青森合浦公園・弘前城内のみごとに育った年を食ったものとはまた別の趣のもので、若木なみに旺なこの町の、誇ってよく、そして伸びて行く唯一の眺める財産だ。この山を道順に下りると、はだか湯の横から始まる「ころび山」へ行く路に出るのだ。この路は、海岸大通り停車場を挟んで平行して行くいわば麻蒸の裏街道なのだ。この道路側にも新しい旅館が軒を並べているが、たいていは別邸だ。海風が真向に青森湾から横になぐってはいり、裏山は馬背のような屏風型になっているので、前景背景の申し分のない処で、別邸住まいには最も恰好の場所だ。この道尽きたるところに橋がある。この木橋から鉄道線路を画面の真中にした湯の島の景色は纏まっているし、それに右手の「ころび山」の裾崩れの烈しい色調が単調を破ってよいし、またこの鉄橋下の石積みのかまえ拵えが申し分ないほど☆☆☆☆☆場所だ。木村さんという魚商の(この町の本通り)養子になった山上喜司氏がこの場所を描いた十号のよく描けた絵を思い出す。水族館はこの頃賑わっている。東奥館直営のバスが、列車が着くごとに出ているのが便利だが、賃銭が道程の割に倍も高い。が、バス道がすっかりコンクリ−トに舗装された雨上りをすたすたタイヤを乗せて行く気持ちはよい。街を離れた海側の埋め立てが成って、海岸が恐ろしく海にはいっている。埋め立てになった岬が半分、山のてっぺンから削り取られて、風情が乾いて恐ろしく、前海の湯の島のよい」湿りを馬鹿にしているようで、気持ちがよくない。裸島の頂点に硝子の玉や風向をつけたのと、年の二つはもってのほかの悪い仕業だ。それから水族館はいうに及ばず、臨海実験所の建物はここの景色をすっかり乱しているのだ。波よけの外にそっくり返ったコンクリ−ト、着船場、未だある固定腰掛けなぞ、心尽くしでやったことが、どれ一つ心尽された形も姿もない情けないほど風情を心としれていないのだ。私のいる椿の湯宿に立派な庭がある。盛岡の庭師を引き具して、今の若い主人の蝦名氏の祖父が、精魂いれて造り上げたものだと聞いた。現在も先代の未亡人が一本一本の草を育て、そのように要らぬ雑草を摘んでいるのだ。ここの湯名になったという大椿が離れて二株ある。一株は先年の冬、暴風雪に枝を取られて形をこわしたのは残念だが、布石の至妙はこの庭に名をなさしているのだ。明治天子様の御野立ちの場所は清浄され、柵されて、洩れる床しさを、外から拝しての朝夕を、勿体なく、畏し普く、合唱している。この由緒の庭にいろいろの鳥が来て囀る。鶯も夏には来るというし、私は鳥の名は知らぬが、スッピッチョン、スッピッチョンと鳴く毎朝同じ時刻障子そばに来る鳥と馴染んで仕舞った。丁度夏で、蝉が時雨のように日中騒いでいるし、夜はまた虫の音がとりどりだ。今も鳴いている。私は椿の湯宿が好きだ。今の主人は若く、明るい人だ。椎茸の栽培に腐心しているというので、そのことの談義にはいつも顔が輝く。家前の一と山、所謂馬場山づたいの自分の持ち山には、椎茸林がどこまでもつづいている。それからもう一つこの由緒の湯宿に勝れた厚板一枚の看板がある。実に立派な字だ。書き手は不明なそうだが、厳かな内に開きを見せた正しい楷書で、実際見事に椿旅館と三字、謹厳に書いている。残念なことには後墨がはいっているので、ちょっと弱くなってるのが惜しい。初めてひと月もいる麻蒸を書くのに、書くことは尽きない。善知鳥前、津軽高野山なぞ書く名所もまだあるし、椿・柳・高砂それぞれ名湯の持っている伝説など、筆を伸ばせば際限ない。 ---浅虫の地名は、昔は麻蒸で通じていたものだったと聞く。わたくしはやはり昔名をこの題に用いてこの随筆に『麻蒸』を使うた---           


「板散華」(昭和17年刊)より

 
棟方志功に関する資料展示

棟方志功記念館
青森市松原2丁目1番2号
017-777-4567
青森県立美術館
青森市安田字近野185
017-783-3000
 
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浅虫温泉 椿館
〒039-3501 青森県青森市浅虫字内野14
TEL.017-752-3341(代) FAX.017-752-3483
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