椿館
について
椿館
について ─凛として 慎ましく 温かく─
ご挨拶



浅虫温泉
当館は江戸時代津軽藩による1687年(貞享4年)の地検帳につばきの湯が記載されており、藩の陣屋でもありました。又、過去帳の最初に記載されている先祖は元禄14年6月25日(66才)没とあります。
明治天皇
陛下宿泊の御宿
また當日は七月一四日で母(姑)が妊娠臨月であったので不敬になってはといふので別家に預けられたとのことでしたが、畏れ多いことながら戸のすき間から行列を拝観したさうです。
その日の家では家内は勿論、周圍は塵一本なき程にはき清められ、満幕を張り廻し大變な騒ぎであったさうです。また當日いろいろな御馳走を差上げましたお附の人々から「大變うまかった」との御ほめの御言葉を賜はり、金七圓五十銭(現今での数百圓)を下賜され、一門一家の光栄と一同感泣したそうです。云々」
その日の家では家内は勿論、周圍は塵一本なき程にはき清められ、満幕を張り廻し大變な騒ぎであったさうです。また當日いろいろな御馳走を差上げましたお附の人々から「大變うまかった」との御ほめの御言葉を賜はり、金七圓五十銭(現今での数百圓)を下賜され、一門一家の光栄と一同感泣したそうです。云々」



椿館
と太宰治
■思ひ出
秋になって、私はその都會から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。
そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。
私はずっとそこへ寝泊まりして、受験勉強をつづけた。
私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、 何かに迫られている私は、それでも一途に勉強していた。
私はそこから汽車で学校へかよった。
日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたようにしていた。
私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。
海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。
弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。
遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないであるような気がするのである。
~太宰治「思ひ出」より~
椿館にゆかりのある著名人
■橋本 花
最初当館に逗留後石木医院の別邸に居位。
■関野 準一郎
来浅の際逗留。
■工藤 日東
■苫米地 義三
■三浦 一雄